演奏前に緊張したなら、
「目の前の人をカボチャと思い込めば、緊張が無くなる」
みたいな事、どこかで聞いた事は無いでしょうか?
僕も中高生の頃、
吹奏楽部の本番で、緊張し出した時は、
・手のひらに「人」と書いて、それを飲む
といった事を、よくやったものです。
実際、こういった方法は迷信であり、
ブラシーボ効果などで、
緊張が消え去ったと錯覚しただけではないか?
と、思いますが、
「緊張」という状態は、
普段の自分とは、何もかもが違う感じがして、
身体のコントロールが効かない感じもするし、
そんな状態で演奏するよりも、
普段通りの自分で演奏したいからこそ、
緊張を嫌がるという気持ちも、
僕には分かる気がします。
また、
ひたむきな中高生や、
懸命に練習している社会人演奏者が、
「本番の舞台でも、
練習している通りに演奏しなくちゃいけない」
と、考えているなら、
緊張をどうにかしたくて、
例え迷信じみたものでも、
信じたくなるのは
誰だって、そうだと思うんです。
だけど、実際に、
手のひらに「人」と書いて飲み込んでも、
目の前の人を「カボチャ」だと思い込んでも、
緊張が消えたり、
人がカボチャに見えたりすることは無かったはずです。
思い込みで、目の前の現実を、
無視することは出来ないんですね。
僕は、
「緊張したら駄目だ」というパラダイムを
変える事が大切だと思います。
緊張を無くそうとするのではなく、
・人間誰もが、緊張をする
という前提の上で、
【緊張する事は自然な事だ】
というパラダイムを持つ事が、大事だと思うんです。
人は誰しも緊張します。
仕事で、プレゼンを行う時は、
それまで作ってきた企画を
初めて人に見せ、評価を委ね、
どんな評価が来るか分からないから、緊張するでしょうし、
僕達のように
音楽を演奏する人にとっても、
自分たちの演奏が、
聴く人にどう思われるか分からないから、
不安になる事もあるし、
緊張も、してくるんですね。
何がどうなるか、
結果が予測できないもの。
そうした「未知なるもの」に、
自分の作ってきたもの、表現、
自分自身を委ねるような感じを持つからこそ、
緊張する事に、
人は、ある種の恐怖を抱くのかもしれません
だけど、
緊張しているからと言って、
他の人を傷つけたり、
害をなす事はありませんよね?
「緊張する事」それ自体は、
誰にも迷惑をかけていることじゃないんです。
そして、
緊張した時に、
確かに、
思うとおり身体が動かせなかったり、
思うように声が出せなかったり、
音が出せなかった経験があるかもしれませんが、
それはただ、
【緊張時の自分の身体の使い方】や
【緊張時のメンタル操作】について知らなかっただけであり、
知らない事は、
これから知っていけば良いだけの話です。
何度失敗をしてきたとしても、
それは、これから先も
失敗し続けるという
証明ではありません。
だから緊張して、
何かに失敗してきたとしても、
それは、自分を貶めるものでも無いのです
どれだけ緊張していたって、
演奏がしたい!という気持ちがあるなら、
誰が何を思おうと、演奏したって良いんです。
究極的に言えば、
演奏する事は、衣食住の何処にも該当しないし、
「音楽」が無くとも、生命が脅かされることはありませんが、
でも、個人個人が、
「生きる」上で
自分には「音楽」が欠かせないと思うのなら、
それは、必要な事なんです。
僕達は、
命を長らえる為だけに生きている訳じゃありません。
ある人は、
仕事に生きがいを感じるように。
ある人は、
愛する人や子供を幸せにする事を
人生の目標とするように。
生き甲斐や目標を見つけ、
それを達成する事。
生きる喜びを実感するためにも、
今、生きている訳です。
それぞれの生き甲斐を持つ事は、
全ての人の自由であり、権利なんですね。
僕達の場合は、
音楽や演奏が「生き甲斐」であるというだけです。
演奏を愛する人や、
音楽が好きな人にとって、
「音楽」が無くなったり、
音楽を望む心が否定されるのは、
死を宣告されたように、つらく感じるように。
緊張をしているからって、
自分の生き甲斐を自分で否定する事は無いし、
緊張している自分自身で、
演奏をしても良いと思うんです。
もし、緊張する事が
ダメだと感じるようなら、
そうじゃない。
人は誰しも緊張するし、
緊張しても、やりたい事をやって良いのだという事を、
ぜひ覚えておいてください。
コメントを残す