楽器を演奏したり練習したりしていると、時々調子が悪くなっていつも通り吹けなくなることがあります。でもこれって、自分を非難する理由になるのでしょうか?
昨日より今日上手くなっていたい、練習した分もっと演奏できるようになっていたい。これはとても自然な感情です。ただ、時には普段よりうまくいかないこともあったり、演奏しにくくなる時だってあります。これを皆さん調子が悪いととらえるのではないでしょうか?
なんで調子の悪さが起きるのか?それは心因性のものだったり、やらなくてもいいことを習慣的にやってしまった為だったり、いきなり試したことのないことをやり続けた結果など、本当に様々な要因があるかと思います。
それを改善するための様々なトレーニングや教本、体の調子を整えるための整体などのやり方も、色々なものがあります。でも、今回は改善のためのやり方ではなく、どう調子の悪さを受け入れ、やりたいことをやってみるかについて書いてゆきます。
調子が悪くなることは、僕だって本当は起きてほしくありません。ずっと上り調子のままでいたいですが、そうそう上手くはいきません。残念ながらどこかで調子の悪い日というのは来てしますものです。
そして、それは何でもない日だったり、本番の近い日だったり、あるいは本番当日になってしまう事だってあります。
でも、ここで「調子の悪さは自分が悪いのだ」と考えるのは僕は反対します。
なぜなら、どんな人にでも調子の悪さは来てしまうし、それは自分の練習不足であるというより、むしろ「繰り返しの練習」を自分に課すような練習熱心であるほど起こりやすいからです。そして練習熱心であるのは演奏への向上心や、音楽への熱意や情熱がとても強いからです。そんな情熱や自分の中の向上心を責める必要はこれっぽっちもないと僕は思います。
そしてもう一つ目を向けてみたい点があります。
それはどれだけその時調子が悪かろうとも、音楽を演奏することをあきらめない心を1人1人が持ち合わせている点です。
本番直前でも、緊張があったとしても、調子の悪さを理由に演奏を放棄することを、自分も周りの方もしてはいないのではないでしょうか?主観的になってしまいますが、少なくとも僕は体調が悪く演奏が出来なくなってしまった場合を除き、自分の調子の悪さで演奏を放棄された方もみた事がありません。
演奏を放棄することが悪だという事ではありません。音楽を演奏することが誰にも強制されない事であるために、それぞれの事情でそういう選択をされることはすべて個人の自由です。演奏する以上に大事なことだって、それぞれの人にありえます。それを選択したっていいのです。
ただ、自分がいかに調子が悪かろうが、そこで演奏する、本番で吹くという選択をそれぞれがしているし、そういう意思を持ち合わせているという点に目を向けてみてほしいのです。これはとても勇気のいる事であり、その勇気を1人1人持ち合わせていることに気付いてほしいと思っています。
なぜそれが勇気なのか?自分がどのような状態であったとしても、それにかかわらず人前で何かを表現しようとしているからです。
自分にとって都合の良い状態であった方が良いに決まってるし、それまで演奏しないといった選択肢も出来るのに、それをやるとその日その時に来てくださった方々に音楽を届けることが出来ないし、また周りの共演者の方とも機会が合わなくなる。だから意識的にせよ、無意識にせよ自分の都合よりもその日その時、共に会場にいてくださる方々とのつながりを優先する。音楽を演奏することでつながろうとし、そして本番で演奏会が終わるまで音楽を表現し続ける。こういう選択が出来る意思や、決意を勇気があると言えるのではないでしょうか?
確かに調子の悪さは自分が何らかの原因で生み出してしまう事かもしれません。でも、それは情熱があっての故であるから自分を責める理由にはならないし、それがあって不安がありながらも、やるせない思いをどこかに感じながらも演奏をしようとする自分の勇気に目を向けた方が、自分の力になってくれると思います。これでいいんだと開き直った方が上手くいくこともあります。
では、調子の悪さをどう受け入れ、どう付き合っていくかについて、僕は調子の悪さを「変化のサイン」として受け取ってみてはどうかという提案をします。
次回はこの「変化のサイン」についての説明してゆきます。
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