演奏の完璧さって?①~完璧主義について~

完璧に演奏したい、何一つミスなく演奏したい。そういう思いをもって練習に励んでいた時期が俺にはありました。皆さんはどうでしょうか?

今回は、完璧なものしか許せない完璧主義の弊害について考えていきます。俺の経験からの考察が多くなるので、その点はご了承ください。

 

例えば想像を絶するような自然の風景や、自分にとっては非の打ちどころのない芸術や、素晴らしい音楽を聴いたとき。そういう自分が何か感情でで満たされているとき「完璧だ!」と思えることがあります。

それはその瞬間の自分がこれ以上ないくらい感動している事なのだと思います。そしてそれを永遠に続いてほしいとも願う事もあるでしょう。

だから、人は「完璧だ」という言葉を使うのかもしれません。完璧とは、自身が感動したことに対する最上級の賛辞の言葉であると思います。

 

ここで質問ですが、皆さんは完璧という言葉を聞いて、どんな印象を持ちますか?

 

欠点の全くない、完全なこと」 辞書にはそう書かれています。俺はここに、なんとなく「静止している」という印象も持ちます。

 

 

 

 

ここで、完璧主義について考えてみます。演奏における完璧さを求めるのは、たとえば素晴らしい奏者の演奏をCDで聴き、それに憧れ、自分もこんなふうに奏してみたい!という願いからだったり、演奏している内にその音楽やフレーズがどんどん好きになっていって、とても思い入れがあるから大事にしたい!という思いからも生まれます。

また、これをミスしてはコンクールに落ちる、ここで失敗したらそれまでの演奏全体がダメになるといった思い込みによって、完璧にしなければならないと考える場合もありますし、残念ながら部活の時に完璧さを強要される場合もあります。

やりたいにせよ、やらなければいけないと思い込んでいるにせよ、どっちにしても「完璧な演奏をしている自分」といったイメージを持って演奏しているかと思います。それが上手く働いて演奏が出来るのなら、それはあなたの能力で、素晴らしい事です。

問題はそうでない場合、自分のイメージと現実の演奏がどんどん離れて行って、それが自分の練習不足によるものだと自分を責めたり、ひどくなってくると、イメージする演奏が出来ない自分などいなくなってしまえばいいと音楽の面のみで自分の価値全てを貶め、否定してしまう場合です。

音楽をしたくて、音楽活動を続けるために部活に入ったり、オケや吹奏楽に入団したりするのに、ただイメージ通りの演奏が何一つミスせず出来てはいないというだけで自分全ての、音楽以外の持っている人柄や友人関係、出来る事、別の好きな事もあるといった価値さえも自分で否定してしまう。それが完璧主義のみが正しいと思ってしまう場合の弊害です。

 

 

より上手い演奏、より望むように奏でられる演奏をしたいという向上心は素晴らしいものですが、それは自分自身を傷つけるための力ではありません。またそのために力を使うべきでもありません。結果にかかわらず、望むことを実現するための原動力として使うべき力です。完璧に演奏したいというのも、もしそうしたいなら結果がどうであろうとその目標に挑んでみるという気持ちでやってみるほうがいいと思います

そして、完璧であらねばならないというのは誰からも強要されませんし、強要できることではありません。自分自身で自分がどうありたいのかを選択できるのです。完璧でなければいけない理由はありません。選択肢から外したってOKなのです。

 

なぜなら、1年後や1日後、1分後の未来を決める能力が人間にはないからです。この一瞬自分がどう動くか、将来やりたいことに向けて今どんな行動をするかを決める力があるだけです。もしかしたら科学が進めば、あるいはそういう未知の能力が発見されるかもしれませんが、それは今出来る事ではないのです。

そして、自分の身体の動きを止めてみると指先が震えたり、嫌な状態になるように、人間は本来動きながらバランスをとる様に出来ています。静止した状態というのは、実はバランスがとりずらく、ストレスが溜まってしまうものです。

だからこそ、完璧という静止している状態を目指すような、額縁に入った絵のような状態を目指すことは上手くいきません。完璧を目指すことが動的なイメージであればいいのですが、完璧を静的な、動きの考えがないものをイメージしていると人間の動きとして矛盾が生じ、結果上手くいかないことがあるのです。

(動きのプロセスはこちらの記事を参照)

 

では、動きを持った完璧のイメージとは何か。演奏における完璧さとは何か。次回はそれを記事のテーマとして書きます。

 

竹内慶貴

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